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そのそれぞれの鳥居の先には、六つの世界が広がっている。六つの世界すなわち「六道輪廻」の世界である。ただ、どの鳥居がどの世界に通じているかは、まったく明らかにされていない。そのうえで死者に鳥居を選択させようというわけだ。死者は、しかたなしに六つの鳥居のどれかを選ぶ。しかし、選びかけてはまた迷う。が、選ばなければならない。冥途は最終の地ではなく、通過の地にしかすぎないからだ。そして選んだ先が、その人の輪廻先≠ニなる。有無をいわせぬ選択である。  ・・・ということになると、こんなやり方はおかしいと思う人もいることだろう。理不尽だ、と。
しかし、これには実はきわめて仏法にかなった合理性があるのだ。というのも、この六つの鳥居のうち、どれを選ぶかその選択眼こそ、その人が生前につくった業の結果にほかならないからである。業≠ニは、前世の行為には必ずその報いがくる、そしてそこからは誰も逃げられない、という仏教の大原理である。
その業≠フ論理が、死者がどの鳥居をくぐるかという一点にまできちんと貫徹されているのだ。ともあれ、こういうふうにして死者の行き先輪廻先≠ヘ決まる。すなわち、ここまでが中陰≠フ世界である。 そしてその後は、来世≠ニなる。